私は以前は、神をけがす者、迫害する者、暴力をふるう者でした。それでも、信じていないときに知らないでしたことなので、あわれみを受けたのです。(13節)
パウロは、自分がどれほど罪深いものであったのかを告白しています。
パウロには律法を守っているという自負がありました。確かに熱心に律法を守っていましたが、イエスキリストの救いを信じていなかったので、結果、神を悲しませることをたくさんしてきたことを知ったのです。
そして、神の一方的なあわれみによって、こんな罪深い者が救われたと気づかされました。
「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。 しかし、そのような私があわれみを受けたのは、イエス・キリストが、今後彼を信じて永遠のいのちを得ようとしている人々の見本にしようと、まず私に対してこの上ない寛容を示してくださったからです。 (15-16節)
イエスキリストは自分のような罪人を救うために来られたとはっきり確信したパウロは、神のはかり知れない恵みを喜び感謝する者と変えられたのです。この恵みは私たちの内にとどまらず、あふれ出てくるものです。
イエスキリストをひとたび信じた者は、この恵みにいつも喜べるものと変えられます。私たちは神に救われたサンプルとなって、周りの人々にこの救いの喜びを伝えてゆくことができるのです。 語ることが苦手でも大丈夫、私たちは救われて喜んでいる姿を見せてゆことができるのですから。
パウロは、自分のように罪深い者であっても神があわれんでくださったのだから、だれであってもどんな状況であっても、イエスキリストの十字架を信じるなら救われる、私が見本です、これは真実です、と言っています。さぁ、今、信じましょう。
(10/12礼拝出席者のメモより)